ブレーキメーカーのブレンボは、フェラーリの伝説のドライバーであるジル・ビルヌーブが、ブレンボ製ブレーキを最大限に駆使して名バトルを繰り広げた1979年フランスGPと1981年モナコGPを紹介している。
世界タイトルを一度も手にすることはなかったもののF1界のレジェンドとして今もなお慕われる名ドライバー、ジル・ビルヌーブ。ブレンボ製ブレーキシステムを搭載したフェラーリを駆って記憶に残る走りを数多く披露し、その名を世界に知らしめた。
■エンツォ・フェラーリ「ことごとく壊してくれた」
ジル・ビルヌーブについて、エンツォ・フェラーリはよくこのように話していたという。
「シャフトもギアボックスも、クラッチもブレーキも、力にものを言わせてことごとく壊してくれるおかげで、まさかの時にドライバーの身を守れるマシンには何か必要かヒントをくれたよ」
■ブレンボの技術者「アグレッシブだった」
ブレンボで最年長の技術者は、ビルヌーブのブレーキングについて「急激でアグレッシブな使い方に徹していた」と振り返る。つねに限界まで迫る彼独特のドライビングスタイルには、母国カナダでのスノーモービルの競技経験が生きていた。
■1979年フランスGP、ルネ・アルヌーとのデッドヒート
ビルヌーブが繰り広げた数々のバトルで特に有名なのが、1979年フランスGPでの、ルネ・アルヌーとのデッドヒート。残り2ラップの序盤、Villeroyコーナーでビルヌーブはブレーキングをぎりぎりまで遅らせ、ライバルのアルヌーをかわした。ビルヌーブのフェラーリ312T3は左のフロントタイヤがロックしたが、ビルヌーブはマシンをなんとかコース上にとどめた。
次のラップでアルヌーはビルヌーブのようにブレーキを遅らせる戦略に出ます。それでもビルヌーブはブレーキをさらに限界までこらえ、アウト側でアルヌーの前をキープしていた。数メートル後にぴったりとつけたアルヌーがついにビルヌーブをかわしたが、ビルヌーブは決してあきらめず、Parabolicコーナーでまたしてもぎりぎりのスリリングなブレーキングでアルヌーに食らいつき、インをついて再び前に出た。
こうした激しい攻防を最終的に制したビルヌーブが2位でフィニッシュ。このときの1位は、アルヌーのチームメイト、ジャブイーユのルノー。F1史に残るこの名バトル、ブレンボのブレーキディスクにとっても底力を発揮した大一番だった。
■1981年F1モナコGP。左足ブレーキを考案
その2年後、ビルヌーブがまたもや世界中を沸かせたのがモナコGPだった。フェラーリ初のターボエンジン搭載マシン、126CKのエンジンターボラグを補うために、ビルヌーブは左足のブレーキテクニックを考案。
このときブレンボが導入したブレーキキャリパーの新たなコンセプトも一部分影響して、ビルヌーブは、ウィリアムズのアラン・ジョーンズに40秒もの大差をつけて優勝。
同様のブレーキテクニックで、続くハラマでのスペインGPも制した。
■ビルヌーブの死
しかし、翌1982年の5月8日、ベルギーGPの予選で起きた事故が、この生粋の天才ドライバーの命をレース界から奪い去った。
ビルヌーブを息子のように大切にしてきたエンツォ・フェラーリにとって、そしてビルヌーブを今も慕い続けるフェラーリファンにとって、ビルヌーブを失った悲しみの大きさは計り知れない。
カナダGPの開催地であるモントリオールのサーキット・イル・ノートルダムは、ビルヌーブを称えて、その名をジル・ビルヌーブ・サーキットと改めた。
■ブレーキトラブルでのリタイアはゼロ
ブレンボの技術者の間で「ブレーキ・スクランブラー」の異名をとったビルヌーブ。
しかし、67回出走したGPのうち、ブレーキトラブルによるリタイアは1度もなかった。
ビルヌーブは1977年イギリスGPのマクラーレンでのデビュー戦を除いて、自身のレースキャリアでブレンボのブレーキをずっと使い続けてきたが、その仕上がりはいつも彼ならではの過激な使い方に十分応えるものだった。