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【動画】今日はファン・マヌエル・ファンジオ生誕105周年

2016年06月24日(金)12:30 pm

今日のGoogle検索エンジンのロゴが「ファン・マヌエル・ファンジオ」になっている。今日は偉大なF1チャンピオン、ファンジオの生誕105周年だ。

Google Doodle(グーグル ドゥードゥル)は、Googleのロゴをその日の世界中の行事や祭日のホリデーロゴに変更する。Doodleは(いたずら書き)。

YouTubeの動画とコメントを紹介しよう。

あまりにも有名なファンジオ。いったいどんな人物だったのだろうか?

■ファン・マヌエル・ファンジオ
Juan Manuel Fangio

生年月日: 1911年6月24日
生誕地: アルゼンチン バルカルセ
死没: 1995年7月17日, アルゼンチン ブエノスアイレス

ワールドチャンピオンシップ:5回
(1951年、1954~1957年)
グランプリ出走:51回
グランプリ優勝:24回
ポール・ポジション:29回
国籍:アルゼンチン

F1ワールドチャンピオンに5回も輝いた偉大なドライバー。2003年にミハエル・シューマッハに破られるまで、46年間もの間、5回のF1チャンピオンというのは史上最多記録だった。

■経歴

彼を史上最も偉大なドライバーだと見なす人は多い。8年間で7シーズンF1にフル参戦した中で(命に関わるような負傷から回復するため1シーズンは不参戦)、彼は(4チームで)5度ワールドチャンピオンになり、2度2位になった。

51回のグランプリ出走中、フロントロー・スタートは48回(ポール・ポジション29回)、ファステスト・ラップ23回、表彰台35回(そのうち24回は優勝)である。彼の完璧な記録は、見事な熟練と大胆さによって達成された。

■どんな人?

ファンジオは、それを粋で優雅で上品に、そしてユーモアのセンスを持って達成したが、後にも先にも例がなかった。

ファンジオはワールドチャンピオンシップの揺籃期にF1レーシングで活躍し、ライバルらは1957年46歳で最後のドライバーズ・タイトルを獲得した高齢の天才を「おやじ」と呼んで称賛した。彼に挑戦するほとんどのドライバーは息子と言ってもよいほど若く、そのほぼ全員が、アルゼンチンのほこりっぱい辺境の地バルカルセ出身の彼とは全くかけ離れた特権階級の出身だった。

■ファンジオの両親

彼が尽くした両親はイタリアのアブルッツィ地方からの勤勉な移民で、神と労働の尊さを信じて6人(息子3人と娘3人)の子供を育て上げた。ファンジオは、彼の人生に対するアプローチを特徴づける誠実さ、高潔さ、自制心、他人への尊敬という美徳は両親から教え込まれたものだと考えていた。

■レース参戦まで。レース参戦は38歳

1911年6月24日生まれのファンジオは11歳になるとメカニックとして働き始め、その後40年近く同じビジネスに関わる一方で、F1イベントが子供の遊びに見えるほど過酷な南米長距離レースに自ら用意した原始的なマシンで参戦した。この狂気のマラソン(一度に何週間も数千マイルを走破する)における超人的な努力により、ファンジオは驚くべき困難と天文学的なオッズをはねのけて何度も優勝を果たした。彼は、無類の機械的知識と競技経験と巧妙なレース手腕を携え、38歳でヨーロッパのレースに参戦した。

■ドリフトの先駆者

かなり洗練されたマシンによるF1の競争のおかげで、ファンジオはドライビング・スキルを磨いてさらなる高みに達した。彼は四輪ドリフトの先駆者であり、見る者を大いに楽しませた。恐ろしいほどの勢いでコーナーに進入し、タイヤから煙をあげつつも完全にコントロールされた横滑りを見せて観客をハラハラさせた。

ファンジオには優れたマシンコントロール以外にも純粋な腕力と驚くべきスタミナがあったため、彼は粗いトラックを3時間以上(当時のグランプリはそれが普通だった)重くて扱いにくいマシンを走らせていた時代において卓越していた。

ファンジオの際立った耐久力は、優れた精神力、忍耐力、根気、高い集中力、ゆるぎない闘志の産物だった。言うまでもなく、非常に危険だった当時、ファンジオは他のドライバーと同じく、現在のF1ドライバーが想像できないような冷静さとむき出しの度胸を持っていた。

■唯一の重傷は徹夜が原因

彼はほとんど事故を起こさず、唯一の重傷は、1952年、アルプス縦走徹夜ドライブの疲労が残ったまま、シーズン前の非チャンピオンシップ大会のモンツァに出走するという判断ミスによる結果だった。2周目、彼はマセラティのコントロールを失って大クラッシュを喫し、頸部骨折により胴体上部が麻痺した。

■禿げていてもモテた

禿げかかった頭部、短躯、ずんぐり体型でニックネームは「エル・チュエコ」(がに股)、魅力的ではない外見は人間的魅力の下に隠れ、その魅力とドライビングにおける偉業のおかげで、彼は世界的な称賛を受ける人物になった。女性は彼を非常に魅力的だと見なした。彼は一度も結婚しなかったが(ただしある女性とは20年間交際した)、交際相手に不足することはなかった。

■誘拐犯をも魅了

1958年フィデル・カストロの革命運動のメンバーがその大義に注目を集めるために彼をキューバで誘拐すると、彼はさらなる国際的セレブになった。彼と会った人が誰でもそうなるように、誘拐犯人らはファンジオに魅了され、無傷のまま彼を解放した。

■真の紳士

彼はあらゆる意味で真の紳士であり、善良なドライバーは最下位でゴールするという想像上のルールの例外であることを証明した。彼の寛容さ、フェアプレー精神、常に変わらぬ礼儀正しさ、驚くほどの謙虚さ、純粋な人間性は、特に同僚らによって広く称賛され高く評価された。

■ライバル、スターリング・モスも敬愛

ファンジオのライバル(そしてメルセデスのチームメイト)のスターリング・モスは「人より速く走るドライバーのほとんどはろくでなしだった」と語った。彼はファンジオを「マエストロ」と呼び、父親のように敬愛した。「ファンの性格のどの部分をとっても、自分にそういう面があったらよいと思えるものだった」

■エンツォ・フェラーリを怒らせた男

中傷的な発言はほとんどなかったが、その中にはエンツォ・フェラーリによるものがある。彼はファンジオが1956年スクーデリア・フェラーリでチャンピオンシップ優勝を果たした後、エンツォの天敵マセラティに移籍したことを非難した。エンツォ・フェラーリは「ファンジオはどのチームに対しても忠実でいることはできなかった。彼は必ず自分が最高のマシンに乗れるようあらゆる努力を払った」と述べた。

■ファンジオと契約すれば成功する

スターリング・モスは、アルファロメオ、メルセデス(2回)、フェラーリ、マセラティでチャンピオンシップに優勝したファンジオが、常に最高のマシンに乗った理由をすぐに指摘する。「なぜなら彼が最高のドライバーだからだよ! 成功するグランプリチームになる最も安い方法は、ファンジオと契約することだった」

ファンジオの強みは、チームプレーヤーにもなり最高位のチームリーダーにもなれることだった(彼はいつもメカニックを味方につけた)。彼はチームを鼓舞し、実際的な貢献も果たし(彼自身がレンチを扱うこともしばしばあった)、これが必ず士気を高めスタッフから最高のものを引き出した。

■卓越したドライビング能力

チームが彼を失望させたときでさえ、ファンジオはそのドライビング能力のおかげで敗北を免れ優勝を手にしたことがあった。彼の最もセンセーショナルなパフォーマンスは、モスを含めF1史上最高の走りと見なしているものは、1957年手ごわいニュルブルクリンクで開催されたドイツGP、マセラティのピットストップ失敗後のことだった。

マイク・ホーソーンとピーター・コリンズの乗るフェラーリに1分近く差をつけられた「おやじ」は、マセラティで最高のサーキットを疾走し、ラップタイム記録を更新して2人のイギリス人ドライバーを2位と3位に追いやった。

■そして伝説に・・・

この画期的な走りにより、彼は5度目のドライバーズ・タイトルを獲得したが、彼にとってはこれが最後の優勝となった。数ヶ月後、あまりに激しく攻め、あまりに多くの同僚の死を悲しみ(キャリアの間に30人以上が事故死した)、ファンジオは46歳という最高齢チャピオンシップ参戦記録と消えることのない伝説を残して引退した。そして1995年母国アルゼンチンで亡くなった。享年84歳。
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