1976年にニュルブルクリンクで行われたF1第10戦ドイツGP決勝で起きた事故により大やけどを負って生死の境をさまよったニキ・ラウダがそのわずか6週間後に行われた第13戦イタリアGPで復帰し、見事に4位入賞を果たしたことは「奇跡のカムバック」としてよく知られている通りだ。
しかし、そのラウダも病には勝てず、ついに20日(月)に帰らぬ人となってしまった。そして非常に多くの者たちがその死を嘆き悲しんでいる。
■「ラウダは苦しみから解放された」とエクレストン
前F1最高責任者であるバーニー・エクレストンはスイスの『Blick(ブリック)』に次のように語った。
「ニキは常に自分の意見というものを持っていた。そして、それはF1では非常にまれなことなんだ」
エクレストンは、4月下旬にラウダを見舞いに行っていたのだと明かし、次のように続けた。
「私はスイスにいる彼を訪ねたんだが、そのとき彼はすでにかなり弱っていたよ。私は本当に心配だった」
「これでもう彼は苦しまなくてもすむ。彼は誇りを持ってこの世界を去ることを許されたし、その方が間違いなく彼にとってはいいことだよ」
■ラウダも死期を悟っていたと親友
ラウダの母国オーストリアの『Kurier(クリヤー)』紙によれば、生涯を通じてラウダの親友であったベートル・ヴィマーは今月20日(月)に亡くなったラウダとその2週間前に会っていたという。
「彼は気分が悪そうだった。彼らは彼をスイスに連れていき、それ以後私は彼にもう会うことはできなかった」
「私が最後に会ったとき、彼は非常に衰弱していた。彼は自分が簡単には回復できないことを理解していたよ」
「だが、彼はファイターだったし、それを信じたいとは思っていなかった。だが、ある時点で、彼ももはやチャンスが残されていないことを理解したんだ」
■最後に聞いた声は弱々しかったとマルコ
同じオーストリア出身ということもあってラウダと親しかったことで知られるヘルムート・マルコ(レッドブル/モータースポーツアドバイザー)は、つい最近電話でラウダと話をしていたことを明らかにしている。
「彼の声はすごく弱々しかったよ」
オーストリアのテレビ局『ORF』にそう語ったマルコは次のように付け加えた。
「彼にはすでに危機的な状況を迎えていた。それはF1に復帰できるかということではなく、彼が生き延びることができるかどうかというものだったんだ」
■ラウダ不在のメルセデスが心配だとメルツァリオ
イタリア出身の元F1ドライバーであるアルトゥーロ・メルツァリオもラウダと親しかった友人のひとりだ。メルツァリオは1976年にニュルブルクリンクでラウダが事故を起こした際に、炎に包まれたフェラーリF1マシンからラウダを助け出した者たちのひとりでもある。
「私が最後に彼と電話で話したのは1か月ほど前だった。彼は本当にぐったりしていたよ」
そう語ったメルツァリオは、メルセデスが最強チームとして君臨するようになった背景にはラウダの存在が大きかったはずだと次のように付け加えている。
「ニキなしで適切な判断が下せるのかどうか心配だよ。私が間違っていればいいのだが」
■ラウダは紳士だったとプロスト
また、かつてラウダのチームメートとしてマクラーレンで一緒に戦ったことがあるアラン・プロストも母国フランスの『L’Equipe(レキップ)』に次のように語っている。
「これほどまでにショックを受けるとは思っていなかったよ」
「チャンピオンは何人もいる。だが、我々は自分のコンディションに決して不平を言わなかった紳士を失ってしまった。彼は常に前を向いている、そんな人物だったよ」
■ウィーンが「名誉の墓」贈呈を決定
ドイツ語圏においては功績のあった市民に対して市がその名誉を讃えるために墓を提供する習わしがあるが、ラウダが生まれたウィーンも3度F1王者となったラウダに「名誉の墓」を与えることを決定したと発表している。
だが、ウィーンのスポークスマンは、「最終的にはそれを受けるかどうかは家族の決定に委ねられる」と語っており、ラウダが実際にどこに埋葬されることになるのかはまだ明らかとなっていない。