伝説的F1ドライバーであるアイルトン・セナが1994年5月1日にイモラ・サーキットで行われたF1サンマリノGP決勝中の事故で亡くなってから今年でちょうど25年が経過したことになる。
その節目の年である今年、現FIA(国際自動車連盟)会長のジャン・トッドが、その前年1993年に自分をフェラーリに迎え入れるよう働きかけてきていたセナに対し、その申し出を拒否していたことを明かした。
■フェラーリに契約を迫っていたセナ
トッドは『racefans.net』とのインタビューの中で、1993年シーズンの途中からフェラーリのチーム代表を務めていたトッドのところにセナがやってきて、翌1994年に自分をフェラーリのドライバーに起用するよう強く働きかけていたのだと語っている。
その記事によれば、当時マクラーレンに所属していたセナは最強チームとして圧倒的な強さを誇っていたウィリアムズへの移籍を望んでいたものの、最大のライバルであったアラン・プロストがすでにウィリアムズと1994年の契約を結んでいたため、いわばプランBとしてフェラーリへの移籍を目指していたのだという。
トッドによれば、1993年の9月に第13戦イタリアGPが開催されたモンツァにおいてセナと3時間にも及ぶ話し合いを行ったという。
■すでに2人と契約を交わしていたフェラーリ
「私は自分の部屋で彼のフェラーリ加入について3時間を費やして話をしたよ」
そう語ったトッドは次のように続けた。
「その当時、93年9月のモンツァでは、彼は(フェラーリ加入に)非常に興味を示していた」
「だが、彼は94年に加入したかったんだ。そして、94年に向けて我々はすでに2人のドライバーと契約を結んでいた。(ジャン)アレジと(ゲルハルト)ベルガーだ」
「私が“我々には2人のドライバーがいるんだ”と言うと、彼は“だけど、F1では契約は重要ではない”と言ったよ。そこで私は彼にこう言ったんだ。“私にとっては、契約は重要だ”とね」
■運命のいたずら?ウィリアムズ加入チャンスを得たセナ
トッドからフェラーリとの契約を拒否されたセナだったが、イタリアGPの次に第14戦が行われたポルトガルにおいてプロストがそのシーズン限りでの引退を発表。これによりセナはウィリアムズに加入するチャンスを得ていた。
迎えた1994年シーズンだが、セナは開幕戦ブラジルGP、第2戦パシフィックGPともにポールポジションを獲得するも、レースではいずれもリタイアに終わる苦しい展開となっていた。
その一方で、彗星のごとく現れたベネトンのミハエル・シューマッハが開幕から2連勝を飾り、さすがのセナも大きなストレスを抱えていたようだ。
そして迎えた第3戦サンマリノGPでも3戦連続でのポールポジションを獲得したセナだったが、レースではやはり3戦連続で2番グリッドを確保していたシューマッハが背後から猛追。そしてセナは7周目に高速コーナーのタンブレロで右側のウォールに激突。34年の生涯に幕を閉じた。