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ビルヌーブが犯した「F1キャリアの選択ミス」とは?

2016年02月10日(水)17:16 pm

1997年のF1チャンピオンであるジャック・ビルヌーブが、自分のF1キャリアを通じて、選択を誤ったことがあったと語った。

■2002年にルノーからオファーを受けていた

44歳となったビルヌーブは、フランスの『Auto Hebdo(オト・エブド)』に「何も後悔はないよ」と語りつつ、次のように続けた。

「僕の唯一の失敗は、(2002年に)BARとの契約を更新したことだった。そのとき、僕はルノーからオファーを受けていたんだ」

仮にそのオファーを受けてルノーに移籍していたとしたら、フェルナンド・アロンソとタッグを組むことになっていたかもしれない。2003年にルノーのドライバーとなったアロンソは、その後2005年と2006年に2年連続でF1タイトルを獲得している。

■ニューイが移籍したマクラーレンからも誘われていた

1997年にウィリアムズ・ルノーでF1タイトルを獲得したビルヌーブだが、エンジンがメカクロームに変わった1998年にはチームが低迷。そして1999年にはBARへと移籍した。

ビルヌーブは、今にして思えば、このときもF1ドライバーとしての岐路に立たされていたのだと次のように語った。

「実際、僕はマクラーレンからオファーを受けていたんだ」

「エイドリアン・ニューイ(現レッドブル技術責任者)が電話をかけてきて、BARとはサインせずに、自分と一緒にやらないかと言ってきたんだ。彼は僕のことが好きだったんだ。彼はウィリアムズのときに自分が作ったクルマで僕がどういうことができていたかを見ていたからね。そして僕たちはお互いに非常に尊敬し合っていた」

ニューイは1996年限りでウィリアムズを離脱し、翌年からマクラーレンに移籍していた。そしてそのニューイによって設計されたマシンで、ミカ・ハッキネンが1998年と1999年に2年連続でF1チャンピオンに輝いている。

■芽が出ずに終わったBAR

ビルヌーブは、次のように続けた。

「マクラーレンに行っていればよかったと今日になって言うのはたやすいことさ。だけど、自分のチームを持つチャンスを見過ごすことなどできたと思うかい?」

BARは、ビルヌーブのマネジャーを務めていたクレイグ・ポロックがティレルを買収し、イギリスのブラックリーにファクトリーをかまえて1999年から活動を開始したチームだ。それは実質的にビルヌーブのために作られたチームだったと言っても過言ではなかった。

だが、翌2000年からはホンダエンジンを搭載するものの、BARの戦闘力は決して高くなく、ビルヌーブも2001年に2度3位表彰台に上ったのが最高の結果となった。

2001年にはポロックもチームを離脱し、チーム体制が一新されたBARとの契約を更新したビルヌーブだったが、結局2003年の最終戦日本GPで佐藤琢磨にシートを奪われてしまう。その後ルノーやザウバーへ移籍するも、目立った活躍を見せることなく、ビルヌーブのF1キャリアは2006年シーズンをもって終わりを迎えていた。

■メルセデスへと姿を変えたブラックリーのチーム

一方、BARはホンダに買収され、2006年からはホンダのフルワークスチームに姿を変えた。だが、ホンダも2008年シーズン限りでF1から撤退。チームは当時のチーム代表であったロス・ブラウンが引き継ぎ、2009年にはブラウンGPとして参戦。ブラウンGPは開幕と同時に力を発揮し、ジェンソン・バトンがF1チャンピオンに輝いた。

翌2010年にはブラウンGPをメルセデスが買収し、メルセデスのワークスチームに姿を変える。そしてメルセデスAMGと名前を変えたチームは、ルイス・ハミルトンとニコ・ロズベルグを擁して2014年と2015年に圧倒的な強さでF1チャンピオンチームとなっている。

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